2021/05/03
皆さんは誕生日のお祝いをするだろうか?
私が生まれ育った家庭は、誕生日祝いという行事を導入していなかった。私が3兄弟の一番下で、親曰く「誕生日の回数が多いし、飽きた」らしい。余談にはなるが、我が家にはクリスマスも導入されていなかった。小さい時にサンタさんをいつまで信じていたかなんて話で盛り上がる場面があるが、私の場合は保育園で友達から話を聞いて初めてクリスマスやサンタさんの存在を知った。その後もクリスマスには縁がなかったので、高校生くらいまでクリスマスがいつなのかも知らなかった。ちなみに、クリスマスを導入しなかった理由は「他所の子の誕生日まで祝ってられない」と仰っていた。
少し話がそれてしまったが、今回は誕生日の話をしようと思う。
多くの人が何らかの形で自分や友人の誕生日を祝っているだろう。そもそもなぜ誕生日を祝う習慣があるのだろうか?
疑問を感じたらGoogle検索だ。
どうやら、日本には古くから誕生日を祝う習慣はなかったらしい。数え年で年齢を数えるのが一般的で、お正月にみんなで一斉に歳を取るって感じだったようだ。それが、昭和24年に「年齢のとなえ方に関する法律」が制定され、満年齢での数え方が普及した。そこから個々人の誕生日という概念が日本にも生まれた。
そこに海外の誕生日を祝う文化が合流した。海外ではクリスマスのように、神の生誕を祝うなど宗教的な文脈から誕生日を祝う習慣があったようだ。個人の誕生日を祝うようになった起源は定かではないが、15世紀のドイツでは「キンダーフェスト」と呼ばれる子どもの誕生日会が行われていたらしい。
私個人としては、誕生日を祝う理由があまり分からなかった。多くの人にとっては、誕生日は小さい時に美味しいものが食べられたり、プレゼントが貰える快感情と条件付けされた行事であまり深く誕生日を祝う理由は考えないだろう。
「今まで育ててくれてありがとう、支えてくれてありがとう」と誕生日を迎えた人が周りに感謝するなら分からないでもないが、「今日生まれてきた日だね。おめでとう」って意味が分からない。
しかし大学で心理学を学ぶ中で、この「今日生まれてきた日だね。おめでとう」というなんの理由付けもない状態での祝福が大切なのだと気がついた。
理由付けのない存在の肯定は、人にとってとても大切なことだ。
理由付けのある肯定はこの世界にありふれている。イケメンだから、仕事ができるから、気が利くから、金持ちだからと、肯定される理由なんてものはたくさんある。
しかし、「ただ生まれてきてくれて、生きていてくれてありがとう。おめでとう」と言われるような機会は少ない。ドラマのくさいセリフで「出会ってくれてありがとう」なんてものも聞いたことがあるが、これはほぼ理由付けのない肯定と言っていいだろう。
幼少期に理由付けのない他者からの肯定経験は、自我の形成において重要な要因になる。「あなたが頭が良かったり、良い子だったり、しなくてもただ生まれてきて、また新たな1年を生きていてくれてありがとう、おめでとう」という、肯定経験は自分の存在の肯定の元になる。これの全く逆が生まれてきたことを否定するような発言だ。
そしてこの理由付けのない肯定は何歳になっても良いものである。だからこそ、恋人同士は誕生日を祝うのだろうし、その習慣が子にも継承されるのだと思う。
誕生日を祝う習慣がないからと言って、自我の形成に必ず問題が出るわけではないが、祝っておいて損はないと思う。
幼少期から誕生日を祝われてこなかった私でも、ちょっとひねくれものに育ったくらいでいたって普通である。
さて、そんな私の誕生日は毎年5月にやってくる。誕生日プレゼントは誕生日の前後6か月間受付中である。Amazonの欲しいものリストもTwitterに貼ってある。
皆さんからの理由付けのない肯定を楽しみにしながら、過ごすとしよう。
参考:誕生日を祝うようになったのはいつから?由来や風習を知ろう